新5000円札の女性は誰?|津田梅子は生涯独身を貫く


4月9日に、1万円・5000円・1000円札のデザインが刷新されることが発表されました。
新1万円札には、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)。

新千円札には、近代日本医学の父と呼ばれる北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)がデザインされました。

そして、新5000円札には、津田塾大学の創立者でもある女性・津田 梅子(つだ うめこ)がデザインされる予定です。

新札のデザインについて「ダサい」などの世間の声もありますが、
今までのお札とは違い、肖像画・数字などの配置やデザインが変わる予定です。

今回は、新5000円札に採用された女性、津田梅子(つだ うめこ)は
どんな人なのかを見ていきましょう。

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岩倉使節団として最年少

新5000円札 女性 誰
津田梅子(つだ うめこ)の父親は、明治政府の事業である「北海道開拓使」の嘱託となり、
それがきっかけで北海道の開拓を指揮した黒田清隆と出会います。

黒田清隆は、女子の教育に関心を持っていた人物だったため、
ウメ子の父親は黒田清隆が企画した「女子留学生」に梅子を応募させました。

そして、1971年・梅子は岩倉具視(いわくら ともみ)をを正使としとする岩倉使節団に随行して渡米。その際、5人が渡米しましたが、
最年少の満6歳でした。

梅子は画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられ、その後、10年以上を
アメリカで過ごすこととなります。

梅子は、英語・ピアノ・ラテン語・フランス語・自然科学・心理学・芸術など様々な分野を学びます。
その後、1882年の11月に日本へ帰国。

帰国後は、幼少期より長年アメリカで過ごしたこともあり、
日本語は通訳が必要なほどだったと言います。

生涯独身を決意

また、当時の日本では女性が活躍できる職業も乏しかったのですが、
華族女学校で英語教師としての仕事を受けます。

ただし、梅子は上流階級の気風には馴染めなかったとされ、当時、勧められた縁談も断っています。

当時、日本女性の結婚適齢期は15歳だったと言われ、
適齢期を過ぎた梅子に対し、周りは「結婚しなさい」とうるさく言っていたのではないか?
と推測されます。

結果的に梅子は、
「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」

と手紙にしたためたほどにうんざりしていたそう。

梅子は、日本の結婚観に疑問を感じていたのか、生涯独身を誓います。

再び、留学を決意する

梅子は再び留学し、「リベラル・アーツ・カレッジ、ブリンマー・カレッジ」にて生物学を専攻。
なお、教授法に関する研究に関しては、州立のオズウィゴー師範学校にて行なっています。

梅子に再度、留学をするように勧めたアリス・ベーコンは、日本女性に関する研究をしており、
梅子は、アリスが自身の研究を出版した際には手助けをしており、
これがきっかけで日本の女性教育に関心を持つようになったのでは?と言われています。

梅子は、その後、日本女性の留学の為に奨学金設立を発起し、講演なども積極的に行います。

梅子的には、馴染めない日本に居るよりも、このままアメリカに残って活躍する事の方が
幸せだったはずです。

しかし、梅子はアメリカに残る事なく、日本の女性教育を発展させる為に、
日本への帰国を決めました。

津田塾を設立

帰国後は、再び、華族女学校に勤めてしばらくは教師生活を続けます。

その後、父親やアリス・ベーコンらの協力も得て、
1900年7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願いを東京府知事に提出します。

今までの女子教育とは違い、
進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となります。

しかし、女子英学塾の創業期に健康を損ない、1929年(昭和4年)には、
脳出血のため64歳で死去しました。

若い時に誓った生涯独身を貫き、女性教育の推進の為に邁進した女性と言えるでしょう。

(参考文献:wikipedia)

津田梅子まとめ

津田梅子さんが生きた時代は、結婚適齢期が15歳。
今と違って、結婚するのが100%当たり前のような時代の中、
縁談を断って生涯独身を貫くことで、周囲の風当たりも強かったのではないでしょうか?

また、幸か不幸か幼少期からアメリカに渡り、
母国である日本に馴染めなかった事が伺えます。

それでも、日本の女子教育のため、自分の幸せよりも
教育の発展に貢献した人物だと言えるでしょう。

そう言った目で、新五千円札のデザインに決定した津田梅子さんの肖像画を見てみたいものです。


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