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「るろうに剣心」の緋村剣心(人斬り抜刀斎)のモデル・モチーフとなった人物は、河上彦斎(かわかみ げんさい)です。

河上彦斎(かわかみ げんさい)もまた「人斬り彦斎」と恐れられるほどの人斬りでした。

ここでは、河上彦斎(かわかみ げんさい)や、その妻・息子そして子孫についてまでご紹介していきます。

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【画像】緋村剣心の実在モデルは河上彦斎

るろうに剣心の主人公・緋村剣心(ひむら けんしん)は架空の人物です。

しかし、緋村剣心のモデルとなった人物は実在しており、幕末から明治時代初期にかけての尊皇攘夷派の熊本藩士であった河上彦斎(かわかみ げんさい)です。

岡田以蔵(おかだ いぞう)をはじめとする、「幕末の四大人斬り」の1人としても有名です。

河上彦斎と緋村剣心の共通点

緋村剣心は、身長158cm・体重は48kgです。当時としては、男性の身長の平均くらいで「小柄」というほどではなかったようですが、作中ではよく「小柄」だと強調されます。

実際に、河上彦斎(かわかみ げんさい)の身長は小柄(150cm)ほどで色白一見すると女性のような出で立ちで、写真を見る限り当時としてはイケメンの部類に入っていたと思われます。

また、女性的な外見で妻子にも優しく人情に厚く礼儀正しく温和な人物であったのだとか。

一方で、平気で人を斬る残忍性も併せ持ち、頑固で野性的そして激烈な性格でもあったというところから、緋村剣心の性格そのものと言っても過言ではないかもしれません。

河上彦斎は、「人斬り彦斎(げんさい)」の異名を持つ

緋村剣心は、「人斬り抜刀斎」として過去に恐れられていました。

河上彦斎(かわかみ げんさい)もまた、「人斬り彦斎(げんさい)」「ヒラクチ(蝮蛇)の彦斎(げんさい)」などと呼ばれ恐れられていました。

ただし、実際に河上彦斎(かわかみ げんさい)が斬った人物で記録に残っているのは、佐久間 象山(さくま しょうざん/ぞうざん)のみです。

確証のある史料は残されていないものの、その逸話の多さから記録に残らないような人斬りを常に行っていたとされています。

ちょっと怖いですね。

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緋村剣心の実在モデル・河上彦斎のヒストリー

現在の熊本市中央区新町3丁目に生まれる

河上彦斎(かわかみ げんさい)は、現在の熊本市中央区新町3丁目に生まれます。
熊本城のすぐ近くですので、お城下に住んでいたのですね。

下級藩士(武士)の小森貞助と妻・和歌の次男として生まれました。

最初に名付けられた名前は、「彦次郎」だったそうです。

11歳のときに熊本藩士で下級武士・河上源兵衛(または彦兵衛)の養子となり、名前を彦斎に改めました。

その後は、藩校である時習館に通い学問や県道に打ち込みました。
ちなみに当時は、剣道の試合には弱くいつも負けていたのだとか。

16歳で茶坊主に

武士とはいえど、低い身分であったため16歳のときに藩主邸の花畑屋敷の茶坊主(ちゃぼうず)として採用されます。

茶坊主(ちゃぼうず)の仕事をざっくり説明すると、湯茶の接待や掃除、将軍や家族らの身の回りの世話をすることを仕事としていました。

茶坊主の多くの給料(俸禄)は40俵ほど(約100万円)であり、給与アップする可能性はほぼ0という厳しい立場でした。

とはいえ、掃除坊主から国老附坊主に出世。

仕事の空き時間には、文武に磨きをかけ茶道やいけ花などをも行っていたのだとか。

この頃、儒学者・轟武兵衛(とどろき ぶへえ)や、尊皇攘夷派の活動家・宮部 鼎蔵(みやべ ていぞう)に出会い勤王の志に目覚めていきます。

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ペリーの黒船が来航

彦斎(げんさい)、20歳くらいの際にペリーの黒船が来航。

それをきっかけに、彦斎(げんさい)は勤王学者である林桜園(はやし おうえん)の原道館に入門し尊皇攘夷論に大いに啓発されていきます。

その後、尊王攘夷派の水戸浪士らは、大老・井伊直弼を殺害した「桜田門外の変」が起きます。

この事件で生き残った水戸浪士らが、江戸の熊本藩邸に急用を申し出たのですが、当時、家老付き坊主として江戸に来ていた彦斎(げんさい)はは彼らの接待などをしていますが、これもまた運命的な出会いだったのでしょう。

28歳頃に妻・ていと結婚

1861年、藩主に従い熊本へ帰国した彦斎(げんさい)は熊本藩士・三沢家の次女のてい(後に天為子(ていこ))と結婚します。

このとき、彦斎(げんさい)は28歳でしたが、文献によっては18歳となっているものもあるようです。

妻・ていは、女性でありながらも長刀(なぎなた)の有段者だそうです。

後に緋村剣心の妻となる薫も、剣道の有段者ということで通ずるものがあるかもしれません。とはいえ、薫のモデルはまた別にいます。

彦斎(げんさい)が斬首され、世間の冷たい目を浴びながらも息子・彦太郎を立派に育て、河上家を守っていられたようです。

彦斎(げんさい)が亡くなると県庁を通じ、山縣有朋(やまがた ありとも)より援助が来たそうです。

県庁へ行くと、「下賜(かし)」と書いてある金一封があったのですが、「下賜(かしでは受け取れない」と言い放ったそうです。

※下賜(かし)の意味は、高い身分の人が身分の低い人に物を与えることというものです。

その後、山縣は形をかえて援助したのだとか。

参考:http://www.shinpuren.com/gensai.htm

人斬り彦斎と呼ばれるほど人を斬る

1862年、29歳頃のときに藩主の弟・長岡護美(ながおか・もりよし)の京都警備として同行。

これに伴い彦斎(げんさい)は僧籍を解かれ蓄髪(ちくはつ)が許されることとなります。このときに、河上彦斎と改名。

翌年には、熊本藩の選抜の親兵となり肥後勤王党の幹部格として認められることとなります。

この頃に、彦斎はかなりの人数を斬ったと言われており、この時期のことが「人斬り彦斎」と言われる所以となりました。

この頃の彦斎(げんさい)に対して、勝海舟は「河上と言うのは、それは酷い奴さ。怖くて怖くてならなかったよ」と話しています。


「河上と言うのは、それは酷い奴さ。怖くて怖くてならなかったよ。例えば、こう話ていてさ、巌本(対話者)というものは野心があるなどという話がでると、ハハアそうですかなどと空うそぶいてとぼけて居るが、その日、すぐと切ってしまう。

そしてあくる日は、例のごとくちゃんとすまして来て、少しも変わらない。喜怒色に現れずだよ。あまり多く殺すから、ある日、ワシはそう言った。

『あなたのように、多く殺しては、実に可哀想ではありませんか』と言うと、『ハハア、あなたは御存知ですか』と言うから、『それは分かって居ます』と言うと、落ち着き払ってね。

『それはあなたいけません。あなたの畠に作った茄子や胡瓜はどうなさいます。善い加減の時にちぎって、沢庵にでもおつけなさるでしょう。

アイツラはそれと同じことです。どうせあれこれと言うて聞かせては、駄目です、早くちぎってしまうのが一番です。アイツラは幾ら殺したからといって、何でもありません』と言うのよ」

(引用元:勝海舟『海舟語録』(nicovideo.jp))

簡単な言葉で言い換えれば、「あいつら(斬った人)は、茄子や胡瓜と同じことで、いい加減のときにちぎって沢庵(たくあん)にでもおつけなさるでしょう」と言ってようなものですから、例え冗談であっても怖いですね。勝海舟との会話から、彦斎の残忍な一面が垣間見れます。

池田屋事件、そして佐久間象山を暗殺

文久3年(1863年)、「八月十八日の政変」によって尊攘派の牽引役である長州藩は京を追放され、熊本藩士たちも解散となります。

しかし、彦斎(げんさい)は師匠でもある宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)ら尊攘派志士たちとともに長州藩に入ることとなります。

「八月十八日の政変」によって長州藩は、処罰を受けることになりますが、宮部は朝廷に穏便な処分にしえもらうよう頼みますが、認められませんでした。

そのため、宮部は一橋慶喜(徳川慶喜)や、会津藩主・松平容保(かたもり)を暗殺し孝明天皇を長州に連れ去るという計画を立てます。

しかし、この計画は事前に察知されてしまい宮部ら尊攘派の志士らは会合をしているときに襲撃され、討死もしくは捕まってしまったのです。

実はこれが新選組による「池田屋事件」です。

彦斎(げんさい)の師・宮部は池田屋事件にて奮戦するものの自刃。その仇討をするため彦斎(げんさい)は京に向かいます。

彦斎(げんさい)は、尊攘派ですがそれと対立している相手は「公武合体派」と呼ばれます。

彦斎は公武合体派の根源を断つと決め、彦斎はその根源が、佐久間象山だと考えていました。

実際、佐久間象山は一橋慶喜(後の徳川慶喜に公武合体論と開国論を説いています。

元治元年(1864年)7月11日、三条木屋町にて彦斎および前田伊右衛門によって象山は暗殺されます。

人斬り彦斎と呼ばれた彦斎(げんさい)ですが、この暗殺が最後であったと言われています。

長州軍として「禁門の変」に参戦

佐久間象山暗殺から8日後の「禁門の変」に長州軍として参戦するものの、敗戦。
慶応2年(1866年)の「第二次長州征伐」でも長州軍として戦い、幕府軍に勝利を収めています。

その後、彦斎(げんさい)は佐幕派の熊本藩を説得するために帰藩するのですが、藩によって彦斎は捕えられ1年6カ月ほど投獄されることになるのです。

尊攘派によって倒幕が成し遂げられたことで、藩は彦斎を解放。

彦斎(げんさい)は尊王について説きまわるようになりますが、暗殺した佐久間象山が洋学の第一人者と知らずに斬ったことを反省し「高田源兵衛(こうだ・げんべえ)」という名前に改名します。

有終館を設立

明治2年(1869年)、彦斎(げんさい)は現在の大分県大分市の鶴崎に左遷されます。
そして、鶴崎にて兵士たちを教育するための学校「有終館」を設立

長州藩から追われる身となった同志の大楽源太郎(だいらく・げんたろう)が有終館に逃げ込みますが、源五郎を匿ったことで、彦斎は鶴崎の兵士隊長の任を解かれ、熊本にて投獄され「有終館」は解散。

斬首され37歳で死去

大楽源太郎を囲ったために、二卿事件(にきょうじけん)への関与が疑われ、続いて参議・広沢真臣暗殺事件の疑いもかけられ江戸送りとなります。

明治4年12月4日(1872年1月13日)、日本橋小伝馬町にて斬首されています。37歳でした。

広沢らの暗殺事件への彦斎の関与の度合いは低くかったものの明治政府に、危険視されたために処刑されたと考えられています。

お墓は、東京都大田区池上にある池上本門寺(いけがみほんもんじ)にあります。
なお、京都の妙法院と熊本の桜山神社にも仮墓が1つずつ存在します。

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河上彦斎の家族(妻・息子)&子孫

河上彦斎の妻は、先程ご紹介した天為子です。
2人の間には息子・彦太郎がいます。

彦太郎の息子で彦斎からすると孫の河上利治さんという方は、京都にて居合の道場「龍洞館」をされており、現在は利治さんの息子さんの河上龍介さんが後を引き継いでいるようです。

緋村剣心のモデルとなった河上彦斎

河上彦斎は、最終的には明治政府に危険視され斬首されました。
とはいえ、それほどに河上彦斎の存在が恐れられていたということでしょう。

緋村剣心は普段は優しく穏やかですが、1度剣を握ると人が変わったようになります。
河上彦斎もまた剣心のように、一見すると女性のような出で立ちで普段は温厚な性格で妻子には優しかった人物だったようです。

しかし、その反面、勝海舟が「怖い」と言うほど記録に残らないほどの人斬りを行い「人斬り彦斎」と呼ばれる残虐な面がありました。
河上彦斎の剣は我流でしたが、その後、ご子族は京都にて居合の道場「龍洞館」を開き現在もこの道場は現存しています。

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