桂歌丸の祖母は、横浜で恐れられる遊郭・富士楼の女主人だった?


『笑点』のスタートから、
桂歌丸(かつら うたまる)さんは、
大喜利メンバーとして長年活躍してきた落語家です。

そんな、桂歌丸さんのご実家は、
当時有名だった、横浜市真金町の遊郭「富士楼」
だったのです。

遊郭といえば、江戸時代の時代劇の中でしか
存在していないと思っていましたが、
割と近年まで、営業していたようです。

売春禁止法が施行された昭和33年(1958年)まで、
真金町の遊郭があった場所近辺は、
「永真遊廓街」と呼ばれることもあったそうです。

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歌丸さんの幼少時代

桂歌丸 祖母出典:geikyo.com

歌丸さんは、1936年(昭和11年)8月14日生まれ。

戦時中は、母親の実家が千葉の誉田(ほんだ)にあり、
そこへ疎開しました。

当時、横浜の空襲を見て、もう帰れないんじゃないかと思っていたそうです。

歌丸さんの父親は、3歳の時に他界。
母親は、歌丸さんが小学生の頃に家を出て行ってしまいます。

のちに、歌丸さんを祖母タネさんが歌丸さんを迎えに来て、
祖母と暮らすようになります。

空襲の後に直ぐに商売を始める

桂歌丸 遊郭富士楼
出典:トマソン57横浜遊郭

祖母は、横浜では指折りの遊郭『富士楼』を
切り盛りしていました。

10人の遊女を抱え、「張見世」も行う大きなお店だったそうです。

当時、遊郭「富士楼」「ローマ」、「イロハ」の女主人は、
「真金町の三大ばばあ」と呼ばれて恐れられていましたが、
歌丸さんの祖母タネさんも、その1人でした。

その当時の話として、
祖母が町を歩くと、地元のやくざがサッと両側に寄って、祖母のために道をあけたという。
(引用元:青春と読書

空襲で店が焼けた後も、
焼けトタンを集めて、
バラックを建てて、歌丸さんらの部屋をつくり、
お客さんがとれるよう、徐々に部屋を増やしていきました。

(参考文献:トマソン57横浜遊郭

家計を支えたのは1人の遊女

当時の子供達は食料不足で、栄養不足。

そんな中、祖母の店が繁盛していたため、歌丸さんは、
食料には困らない比較的、裕福な生活を送っていました。

そんな、家計を支えたのは、歌丸さんいわく、
高峰三枝子さんに似ている美人の遊女さんでした。

彼女は、綺麗で、売れに売れ、表にお客さんが、2、3人待っているほどの
人気だったそうです。

そのおかげで、戦後、3回立て直しをすることができ、
おばあさまも、その子を大変大切にされていたそう。

また、当時としては珍しくラジオを持っていたそうですが、
ラジオで落語をきいていたことが、落語家を目指すきっかけになったのだとか。

小学校を出たらすぐ落語家になりたかったものの、
祖母に、中学は出てくれと言われ、中学に入って入門し、休みの日に稽古を始めます。

(参考文献:yurindo.co.jp

祖母の死と結婚

結局は、中学3年のときに、古今亭今輔に弟子入り。
祖母も、「好きな道に進むのが一番」と送り出してくれたそうです。

しかし、翌年、タエさんは心臓発作で亡くなっています。

その頃、歌丸さんは、まだ16歳。

ひとりぼっちが嫌で、結婚も21歳の頃にされています。

お相手は、ご近所さんだった4才年上の富士子さん。

今輔師匠さんが持ちかけてくれた縁談を断り、結婚されています。

(引用元:苑2005 苑インタビュー

まとめ

すでに小学生の頃から、落語家を目指していた歌丸さんの熱意が
あったからこそ、今もなお、落語家として活躍され続けているのでしょう。

複雑な家庭環境の中、力強く、商売を切り盛りしていく祖母の姿を見て、
幼少期の歌丸さんも、何か影響を受けたのでしょうか?

度重なる病にも負けず、落語家として活躍し続ける歌丸さんの姿には
執念のようなものさえ感じます。

80才を超えてもバイタリティのある歌丸さんの姿に、
影響を受けた人々は多いことでしょう。

こちらの記事もどうぞ。

ドラマ・昭和元禄落語心中の八雲の実在のモデルの落語家とは?


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