悪女と呼ばれたイメルダ・マルコス。
彼女は、独裁政権とされたフェルディナンド・マルコス大統領夫人です。

ここでは、イメルダ・マルコスの人生とデヴィ夫人の関係についてご紹介します。

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イメルダ・マルコスの人生とは?

1番右がイメルダ

出典:wikipedia
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929年7月2日にイメルダ・マルコスはマニラに生まれました。

父親は弁護士で、母親は後妻だった為、腹違いの兄弟が5人います。

1938年イメルダが8歳の時に母親は死去し、父親の仕事が激減し家族は貧困生活を送るようになります。
生活は大変厳しく、母親が残した装飾品を売って家系の足しにするほどだったと言います。
それでも高校では英語を学び、第2次世界大戦後、1951年にはセントポール大学にて教育学の学士号を取得し、
中国人学校の教員として働きます。

様々なミスコンでタイトルを獲得

その後、歌手として働いた後はフィリピン中央銀行の秘書として働きます。
なお、様々なミスコンに出場し、タイトルを獲得。
「ミス・マニラ・コンテスト」にて騒動があったものの「マニラのミューズ」の称号を得て、
のちの夫となるフェルディナンドは、このコンテストの写真を新聞で見てイメルダを初めて知る事になります。

フェルディナンドと結婚

1954年、当時、下院議員出会ったフェルディナンド・マルコスは
イメルダに一目惚れして、猛烈にアプローチを仕掛ける。

それに根負けしたイメルダは、出会ってからわずか11日後に、結婚契約書にサインしました。

そして1965年にマルコスが大統領となり、イメルダは大統領夫人となります。

2人の間には、3人の子供がおり、
長女アイミー・長男フェルディナンド・マルコス2世・次女のアイリーンです。

独裁政権へ

イメルダの夫であるフェルディナンドがフィリピンの大統領をした時代は、
フィリピンの「暗黒時代」だと言われています。

実際に、マルコスの圧政により、デモを行う・行おうとした多くの活動家たちは殺害・拷問され、
多くの国民も犠牲となりました。

イメルダも、積極的に国政に介入し、に1975年にはマニラ首都圏知事に就任。

なお、イメルダは多大な浪費家としても知られ、
偽物のミケランジェロの絵画5億4000万円や
3000万円のダイヤの首飾りやを購入、さらには公金1兆5000億円を不正蓄財していました。

アメリカに亡命

マルコス大統領に批判的だったニノイ・アキノが暗殺されると、
反マルコス運動によるデモなどが活発化し、ニノイ・アキノの未亡人である
コラソンに国民の指示が集まるようになります。

1986年にピープルパワー革命が発生し、宮殿を終われたフェルディナンドと共に亡命。

イメルダ夫人らが去った宮殿には3000足の靴と500着のブラジャーなどが残されていたと言います。

1989年には夫のフェルディナンドは亡くなっています。

帰国後、逮捕

1991年11月4日に帰国するも脱税と贈収賄の容疑で逮捕されますが、
保釈金を支払い釈放されました。

その後、1992年大統領選に出馬するも落選。
しかし、1995年にはレイテ島から下院議員として立候補し国政に復帰します。
さらに2018年には北イロコス州知事選に立候補を表明しますが、汚職7件で実刑判決を言い渡されています。

このように独裁政権、貧困層から一気に大統領夫人に上り詰め、
約20年に渡り権勢をほしいままにし、多大な浪費をして亡命したにも関わらず、
帰国後、政権に復帰。

これらの人生がイメルダ夫人を「悪女」と呼ばせるのかもしれません。

参考文献:wikipedia

イメルダ夫人とデヴィ夫人の関係とは?

イメルダ夫人 デヴィ夫人

出典:jiji.com
デヴィ・スカルノさんは、 インドネシアのスカルノ元大統領第3夫人です。

当時から、2人は大統領夫人ということもあり交流がありました。

なお、イメルダ夫人の80歳のお誕生日パーティーが
ソフィテル・フィリピン・プラザホテルにて開催されていますが、
とデヴィ夫人も駆けつけてお祝いしています。

イメルダ夫人まとめ

イメルダ夫人の波乱万丈な人生は映画「イメルダ」にもなっています。
悪女と呼ばれたイメルダ夫人ですが、デヴィ夫人のブログでは、
「日本の政治家はイメルダ・マルコス夫人を見習って欲しいですね。」
と語っています。

本当のイメルダ夫人の人柄や性格については、
私たち民衆には知り得ないところなのかもしれません。


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