オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)は、晩年、ユニセフへの活動に注力しました。
これは、オードリーの幼少期に関係があります。

晩年、彼女は発症率100万人に1.5人と言われる大変めずらしいがん「腹膜偽粘液腫(ふくまくぎねんえきしゅ)」が死因でこの世を去っています。

ここでは、オードリー・ヘプバーンの晩年のユニセフの活動、そして死去までの人生についてご紹介します。
さらに、彼女はヘビースモーカーとしても有名ですが、喫煙者としての彼女の一面についても解説していきます。

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オードリー・ヘプバーンの晩年:ユニセフへの貢献

ユニセフに貢献することとなったきっかけ

オードリー・ヘプバーンは、1929年5月4日生まれで、母親はエラといいます。

1939年に「第二次世界大戦」が勃発する直前、母・エラは子どもたちとともにイギリスから故郷であるオランダ・アーネムへ帰郷しています。

というのも、母・エラはオランダは第一次世界大戦では中立国であり、ドイツ(ナチス)の侵略から免れることができると考えていたためです。

1939年8月、オランダはウィルヘルミナ女王が厳正中立を守ることを宣言したものの、第二次世界大戦が始まると1940年5月10日、ヒトラー率いるナチスは、宣戦布告無しでオランダとベルギーを同時に侵攻。

子どもたちを戦争から守るためにオランダに帰郷しましたが、残念ながら1940年6月、オランダはドイツ軍の占領下に入ることとなります。

オードリーがオランダに来た頃、彼女は10歳でしたが「アーネム音楽院」に通いながらバレーを学ぶこととなります。

オランダ大飢饉

その後、1944年9月、ナチス・ドイツは敗色が濃かったもののオランダ北東部の要衝を死守しており、レジスタンス運動への報復としてオランダに運び込まれる食料を封鎖します。

これに加えて、オランダは記録的な寒さに見舞われ運河が凍り船による食料運送が途絶えたため、アムステルダムを含むオランダ西部の地域では深刻な「オランダ大飢饉」が発生します。

その被害者の中にいたのが、オードリーです。

当時、オランダ住民はパンとじゃがいもだけという1日700キロカロリー程度の食料しか取ることができませんでした。

オードリーらも、チューリップの球根を食べて飢えをしのぐといった有様で、1945年5月に連合軍に解放されるまで、オランダ西部では飢餓にために2万2000人が死去。

生き延びても、重度の栄養失調に陥るものが多数いたのです。

オードリーもまた栄養失調に苦しみ、オランダが解放された際には、重度の貧血や呼吸器障害でガリガリにやせ細っていたとのことです。

そしてこの時にオードリーの回復を助けたのが後のユニセフとなる「連合国救済復興機関(UNRRA)」から届いた食料と医薬品でした。

彼女は、自分の命が助かったのはユニセフのおかげだと感じ、この時の体験が他の人を助ける原動力となったのです。

オードリーの孫であるエマ・キャスリーン・フェレールは、以下のように話しています。

彼女は、自分の女優やモデルとしてのキャリアというのは、世界の子どもたちを支援することの重要性に対する人々の関心を集め、変化をもたらすことができるための1つの手段であると考えていたのだと思います。
(引用元:unisef)

1970年頃から、ユニセフを中心に活動

オードリーがユニセフに最初に貢献した活動は、1950年代のことです。
彼女は、当時、ユニセフのために2つのラジオ番組のナレーションを担当しています。

当時の彼女の音声は現存しており、英語ではありますがオードリーの肉声を以下より聞くことができます。

【My Most Unforgettable Child】

1970年には、放送のユニセフのドキュメンタリー番組「愛の世界(A World of Love)」に、オードリーは当時住んでいたイタリアを代表として出演しています。

1980年から俳優・ロバート・ウォルターズと交際

1980年代になると息子2人も成長。

彼女はパートナーで俳優のオランダ人俳優ロバート・ウォルダース(Robert Wolders)とスイスで暮らしていました。

ロバートは、妻であるイギリス人女優マール・オベロンと死別。オードリーが2度目の結婚生活が終わろうとしていた際に友人の紹介で出会い、1980年から死去するまで、パートナーとして生活していました。

なお、オードリーは彼と過ごした9年間を「人生で最も幸せな年月。正式に結婚しているわけではないが、2人は結婚していると考えている」と述べています。

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最後の映画出演は、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画

オードリーは、スティーヴン・スピルバーグ監督の「E.T.」に感銘を受け、1989年に公開されたスピルバーグ監督の映画「オールウェイズ」のカメオ出演の依頼を受けたときは、喜んで引き受けました。そしてこれが、オードリー最後の出演映画となったのです。

1988年、エチオピアでユニセフの活動に参加

1988年3月9日、オードリーはユニセフ親善大使の依頼を引き受けることとなりました。
大使への任命発表から2週間もたたないうちに最悪の食料危機に陥っていたエチオピアへ訪問します。

彼女は、500人の飢えた子どもたちが暮らす孤児院を訪れ、ユニセフに食料を送ってもらいました。

当時、彼女は以下のように語っています。

心が折れてしまった。絶望を感じています。200万人もの人々が餓死の危機に瀕しており、その多くが子どもたちであるということに耐えられません。配布できないのです。昨年の春、2つの内戦が同時に発生したため、赤十字やユニセフの職員は北部の州から退去を命じられました…。

私は反乱軍の国に行き、食料を求めて10日、3週間も歩いてきた母子が、砂漠の床に沈み、死ぬかもしれない仮設キャンプにいるのを見ました。恐ろしいことです。

そのイメージが私には強すぎるのです。第三世界」という言葉はあまり好きではありませんが、私たちは皆ひとつの世界です。人類の最も大きな部分が苦しんでいることを知ってもらいたいのです。
(引用元:audrey1.org

さらに1989年のユニセフ親善大使就任式では以下のようにコメントしています。

「わたしはユニセフの活動に、決して揺るぐことのない感謝と信頼を置いています」(引用元:unicef)

「わたしは45年間この仕事のオーディションを受け続けてきて、やっとそれを手に入れました」

オードリーのユニセフでの主な活動

1988年8月、オードリーは予防接種キャンペーンのためトルコに向かい彼女はトルコについてを「ユニセフの能力を示す最も素晴らしい例」と読んでいます。

この時のことについて彼女は、「軍隊が私たちにトラックをくれ、魚屋がワクチンのワゴンをくれた。日付が決まったら、全国に予防接種をするのに10日かかった。悪くないですね」と語っています。

同年の10月には、南アメリカに行きベネズエラとエクアドルでの経験について米国会議で次のように述べています。

「わたしは、山間部のコミュニティやスラム街、小屋などがはじめて水道を導入する奇跡の瞬間を見ました。わたしは、ユニセフが提供したレンガとセメントを使って少年たちが自分たちの学校の校舎を建てるのをみました」

1989年2月、中米を訪問

1989年2月には中米を訪問し、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラの指導者と面会

同年の4月には「オペレーション・ライフライン」と呼ばれるミッションの一環として、内戦のために援助機関からの食料が途絶えていたスーダンをパートナー・ウォルターズと共に訪れています。

このミッションは、スーダン南部に食料を輸送するというものでした。

ヘップバーンはこのときに、「これは自然災害ではなく、人為的な悲劇であり、人為的な解決策は平和しかないということだ」と述べています。

同年10月には、再度、ウォルターズとともにバングラデシュにを訪問。国連の写真家であるジョン・アイザックは、その時の様子について以下のように述べています。

「しばしば子供たちにはハエがたかっていたが、オードリーはただ彼らを抱きしめに行った。他の人たちは躊躇していたが、彼女は彼らを抱きしめていた。子どもたちは、彼女の手を握り、彼女に触れようと寄ってきた。」

1990年10月、ベトナムを訪問

1990年10月、オードリーはベトナムを訪れ、ユニセフが支援する予防接種や綺麗な水を確保するための水道設備設置に協力しました。

彼女が亡くなる4カ月前の1992年9月には、ソマリアを訪問しました。彼女は、その悲惨な状況を目の当たりにし「私は悪夢の中に足を踏み入れてしまった」と語りました。

「エチオピアやバングラデシュの飢饉を見たことはありますが、このような状況は見たことがありません。想像をはるかに超えていました。心の準備ができていませんでした」とコメントしたものの、彼女は希望を捨てませんでした。

「子どもたちを世話することは政治とは関係ありません。時が経てば、人道支援の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」と述べています。

大統領自由勲章とジーン・ハーショルト友愛賞を授与

1992年、アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュは文民に与えられるアメリカ最高位の勲章である大統領自由勲章をユニセフでの活動をたたえてオードリーに授与することとなりました。しかし、オードリーは参加できず、彼女が亡くなった後にメダルが届けられています。

さらに、映画芸術科学アカデミーは彼女の死後、人道活動への貢献に対してジーン・ハーショルト友愛賞を贈っています。

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オードリー・ヘプバーンの死因と死去まで

発症率100万人に1.5人

1992年9月下旬、オードリーはソマリアからスイスに帰国するものの腹痛に悩まされるようになりました。

スイスでの最初の検査では決定的な結果は得られませんでしたが、11月初旬にロサンゼルスにあるハリウッド俳優御用達の「シダーズ・サイナイ医療センター」で行われた腹腔鏡検査で、悪性腫瘍が虫垂や小腸へ転移していることがわかりました。

彼女の病名は、発症率100万人に1.5人といわれるほど大変珍しい腹部のがん「腹膜偽粘液腫(ふくまくぎねんえきしゅ)」というものでした。

数年かけてゆっくりと成長してきたがんは、小腸を薄く覆うように転移していました。
オードリーは、手術を受けた後、化学療法を開始しました。

スイスに帰国しクリスマスを迎える

余命3カ月と宣告されたオードリーは、ロサンゼルスから自宅のあるスイスへ帰国することを希望しました。
しかし、手術後の回復途上にあり健康上のリスクがあり、民間航空機を利用することはできませんでした。

しかし、長年のオードリーの友人でありファッションデザイナーであるユベール・ド・ジバンシーが、メロン財閥のポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・メロンに頼み、メロンが所有するプライベートジェット機をヘプバーンのために手配したのです。

ジバンシーとの関係

ジバンシーとオードリーは、1954年の映画「サブリナ」の撮影中に知り合い、1957年の「ファニー・フェイス」の撮影で親しくなりました。それ以降、40年以上にも渡る友情が始まったのです。

2015年にジバンシーは、インタビューでオードリーとの関係について「kind of marriage(結婚しているようなもの)」という関係だと語っています。

無事にスイスの自宅へ

パイロットは、彼女の健康を害さないため、気圧の影響を最小にするためゆっくりと機体を降下させていきました。

なお、このとき基本的に彼女は生命維持装置に繋がれていたとのことです。

それでも、花で満たされたプライベートジェット機で、でロサンゼルスからジュネーブまでオードリーを送り届けることができました。

ホスピスケアを受けながら最後のときを迎える

無事、オードリーは自宅でクリスマスを過ごすことができ、ウォルターズたちに「今までで一番美しいクリスマスを過ごした」と語りました。

彼女は、ホスピスケアを受けていたものの、時折、庭を散歩できるほど元気になりました。

しかし、次第に寝たきりの状態になっていきました。

1993年1月20日の夜、死去

1993年1月20日の夜、ヘップバーンは自宅で眠るように亡くなりました。
葬儀は、1月24日、トロチェナズ村の教会で行われました。

なお、メル・ファーラーとオードリーの結婚式で牧師を務め、1960年に生まれた二人の息子ショーンの洗礼も担当したモーリス・アインディグエルがこの葬儀を取り仕切り、ユニセフからはサドルッディン・アガ・カーン皇太子が弔辞を述べました。

葬儀には、多くの家族や友人が参列しました。パートナーのロバート・ウォルターズ、息子たち。異母兄弟のイアン・エドガー・ブルース・クアレス・ファン・ウフォード、元夫であるアンドレア・ドッティとメル・フェラー、友人のユベール・ド・ジバンシィ、ユニセフの幹部、俳優仲間のアラン・ドロン、ロジャー・ムーアなど。

なお、葬儀ではグレゴリー・ペック、エリザベス・テイラー、オランダ王室などから生花が送られました。

その後、自宅近くのトロシュナの小さな墓地に埋葬されましたが、これも彼女の最後の希望の1つでした。

オードリーが眠るトロシュナ墓地

オードリーが眠るお墓は、「トロシュナ墓地」という共同墓地にあります。

この場所に行くには、かつては「トロシュナ駅」という駅がありましたが、現在は停車する列車がありません。

列車で墓地まで向かうには、モルジュよりビエール(Bière)行きのローカル列車に乗車し、プレリオンヌ(Prélionne)で下車すると徒歩で行けるようです。

死後、グレゴリー・ペックがオードリーに捧げる朗読を

オードリーの死後、ローマの休日のジョー・ブラドリー役として知られるグレゴリー・ペックは、彼女へのトリビュートとしてラビンドラナート・タゴールの詩「果てしない愛」を朗読した音源を残しています。

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オードリー・ヘプバーンとタバコの関係

オードリー・ヘップバーンは、第二次世界大戦が終了した15歳〜16歳頃より喫煙しはじめたと多くの伝記で紹介されています。

伝記によると、彼女は1日に3箱(60本)を吸うヘビースモーカーだったということです。

彼女が喫煙をはじめたきっかけは、祖国が解放された際にアメリカ兵が吸っているタバコを見たことがきっかけだったとウォーレン・ハリス著「A Biography」では紹介されています。

彼女は、イギリスのブランド「ゴールドフレーク・シガレット」をフィルター付きの細長い管状の喫煙具「シガレットホルダー」でよく吸っていたようです。

後年の愛用は、「KENT」だったとのこと。

1日の終わりには、「KENT」とスコッチをもって家の中を歩き回るのが習慣だったとか。

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オードリーはタバコが健康に悪いことを知らなかった?

オードリー・ヘプバーンの唯一の悪癖はタバコだったと言われていますが、オードリーはタバコが健康に悪いことを知らなかった可能性もあります。

1920年代〜1960年代にかけて、喫煙は安全で健康的なものだと考えており、タバコが医師によって推奨されていた時代でした。

タバコ=健康に悪いというイメージがついたのは、1989年代後半〜1990年代からのことです。
そのため、当初、オードリーは、タバコが身体に悪いと知らなかった可能性もあることが指摘されています。

参考:everythingaudrey.com

オードリーの喫煙シーンがある映画一覧

ローマの休日(1953)
ティファニーで朝食を(1961年)
華麗なる相続人((1979)
シャレード(1963)
おしゃれ泥棒(1966)
パリで一緒に(1964)
いつも2人で(1967)

オードリーは晩年、ユニセフの活動に注力

オードリーは、第二次世界大戦が勃発する前に母の故郷であるオランダに移り住んでいます。
1944年より、このオランダで「大飢饉」が起き、オードリーはその犠牲となっています。

当時は、ガリガリにやせ細りチューリップの球根を食べて飢えをしのいだのだとか。オランダが解放されてからも、貧血や呼吸器障害などに悩まされており、そのときにユニセフの前身となるUNRRAから届いた食料と医薬品によって、彼女は助けられました。

彼女は、ユニセフに恩を感じており、このときの体験が晩年のユニセフの活動へと繋がっていきます。
とても健康的で純粋なイメージのあるオードリーですが、私生活ではヘビースモーカーだったと伝えられています。

愛用の銘柄は「KENT」で1日の終わりにタバコとスコッチをもって部屋を動き回るのが日課だったとか。

1992年には、発症率100万人に1.5人と言われる大変珍しいがん「腹膜偽粘液腫(ふくまくぎねんえきしゅ)」であることが判明します。

友人のジバンシィらの協力もあり、最後は自宅のスイスにて息を引き取ることとなりました。

オードリーは、1993年1月20日に死去し既に彼女の死から25年以上が経過しています。

それにも関わらず、現在も世界中の多くの人々がオードリーに魅了されるのは、オードリーのカリスマ性と人柄によるものかもしれませんね。

なお、オードリーヘップバーンの孫娘エマ・ファーラーは現在、モデルとして活躍しています。

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