加藤 明(かとう あきら)さんという人物をご存知でしょうか?
日本では、あまり知られていない人物ですが、遠く離れた国・ペルーでは
元フジモリ大統領に次いで高い知名度を誇る方です。

加藤明 ペルー

出典:elcomercio.pe

加藤明さんは、1933年神奈川県小田原市に生まれ、慶応義塾大学法学部
在籍時よりバレボールの選手として活躍していました。
1960年には世界選手権にも出場した選手です。

引退後は、母校である慶応義塾大学のバレーボール部で監督を務め、
1964年にはチームを全日本大学選手権で優勝へと導いた名監督です。

1965年のある日、加藤明さんはペルーからの監督の依頼を受けます。その時、彼は32歳でした。

当時は、1964年東洋の魔女と言われる日本の女子バレーチームが東京オリンピックで金メダルを獲得した時代。そして東洋の魔女といえば厳しい練習方法で有名でした。

しかし、そんな日本女子バレーとは全く違いペルーの女子バレーボール界は、さんざんなものでした。
ペルーの選手達の練習時間は、わずか1時間ほど。これでは到底、世界で通用するはずがありません。

加藤明監督は、そんなペルー選手たちに日本式の厳しい練習を課しました。
練習時間は1日に5時間。厳しい練習をはじめたため辞めていく選手も少なくありませんでした。
新聞でも「野蛮な国から来た野蛮な監督」と掲載されるほど当時はひどくバッシングされていました。

しかし加藤明監督は、そんなバッシングにも負けず、ペルー国内を回っては素質のある少女をスカウト。

そして、ペルーの言葉だけでなく生活習慣、文化、食べ物などありとあらゆるものを
勉強しペルー人の心を理解しようと努力し、選手たちを練習だけでなくさまざまな面でサポートし交流を深めていきます。

そんな努力が選手たちにも通じたのかいつしか、選手たちは加藤監督を父のように慕うようになります。
彼女たちは厳しい練習にも耐えるようになり
1968年メキシコオリンピックでは4位入賞を果たすまでになります。
当時、世界中はペルーの功績に驚いたそうです。

ペルーのバレーボールの歴史で、加藤明監督は最高の監督だと考えられています。その後、17年間加藤監督は、ペルーで過ごします。

しかし1982年、わずか49歳の若さで加藤明監督は亡くなってしまいます。
死因はウィルス性肝炎でした。

ペルーの新聞は「ペルーは泣いている」と報じ、死をとむらう車のクラクションが
一晩中鳴らされました。葬儀に出席した国民は5万人と言われています。

加藤監督の死から半年後に行われた1982年の世界選手権では日本代表を初めて破り
史上最高の2位に輝きました。

現在、ペルーのリマには加藤監督の記念碑が建てられ「アキラ・カトウ小・中学校」が設立されています。

また加藤監督の命日には参拝者が加藤監督が、生前選手たちに教えていた『上を向いて歩こう』を歌います。

日本では加藤明監督について「ペルーは泣いている」という題名で道徳の教科書にも掲載されています。

参考文献:edu.city.yokohama.lg.jp/en.wikipedia/elcomercio.pe/izumi-e.esnet.ed.jp

日本では、ほとんど知られておらず異国で知名度の高い日本人はたくさんいますが、
加藤明さんも、その1人です。

彼は、ただ厳しい練習方法を選手に押し付けるのではなく、彼女たちの背景にある文化や習慣を必死になって勉強し
理解しようとしました。そして親身になって彼女たちを支えたのです。

監督と選手にとって「信頼関係」はとても重要です。加藤監督は、日本ではなくペルーの地でペルー選手たちと信頼関係を築きました。
信頼関係が築けたからこそ、ペルーは世界でも通用するレベルにまでなったのだと思います。

加藤明監督は、人との信頼関係に国は関係ない。お互いを理解しようと努力すれば、心を通わせることができるということを教えてくれているように思います。


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